私的・すてき人

障がいがあったからこそ、こんなにたくさんの感動に出会える

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シッティングバレーボール男子日本代表

さがね のぞむ

嵯峨根 望さん [大阪府和泉市在住]

公式サイト: https://www.facebook.com/nozomu.sagane

プロフィール

1987年 和泉市出身
2009年 桃山学院大学4回生でシッティングバレーボールチーム「大阪アタッカーズ」に参加
2010年 和泉市役所高齢介護室に勤務 中国広州アジアパラ競技大会ほか、多くの世界大会出場 
2016年 日本代表として東京五輪に向けての練習をこなしながら、市内外で多くの講演も

「足、やっと見せてくれるんや」
親友ノブリンのそのひと言が人生を変えたといってもいい。
 
両脚とも義足で、本当の自分を見せることを極端に恐れていた中学生時代。
暑さに我慢の限界がきて、意を決して「義足外してもいいかな」と聞いた彼に、ノブリンは「いついうてくれんかと思ってた」と笑った。
 
「その時パチッてスイッチが入った。一気にラクになったんです。ありのままの僕を見せていいんや、なんで今まで隠してきたんやろうって」
必死で隠してきたのは、足じゃなくて心…
その瞬間解き放たれたように“自由”になった。
 
「障がいがなかったら、こんな楽しい人生になってたやろか、こんなにたくさんの出会いや感動があったやろか…絶対今の方が楽しい、そうとしか思えないんです」
 
 

人と違う自分は受け入れてもらえない

幼稚園の頃自分はスーパーマンだと思っていた。
「みんなには足があるのに、僕にはない。選ばれたる人間ちゃうんかなって(笑)」
生まれつきの骨形成不全、歩くためには両脚とも切断して義足をつけるしかなかった。
 
だが小学校にあがると、嫌でも障がいと向き合うことになる。
「変な歩き方やな、ロボットみたいやってイジメられる。なんで僕だけ足がないんやろ、こんな目にあわなアカンのやろって」
 
「人と違う姿は、受け入れられない」
その思いは歳とともにドンドン降り積もっていった。
 
そんな4年生のある日、出会ったのがシッティングバレーボール。「大阪アタッカーズ」というチームに母親の知り合いがいることから、参加することになる。
あまり聞きなれないスポーツだが、シッティング、つまり座ったまま行うバレーボールのこと。お尻をコートから浮かすとアウトになること以外は、ほぼ普通のバレーと同じ。コートに一人障がい者がいればOKという、障がいのワクを超えて楽しめるスポーツでもある。
 
「バレーは楽しかったけど、そこでも初めは気にして義足をはずせなかったんです。みんな義足をはずして練習してるのに、見られたくなかった」
ありのままを見せたら嫌われる――トゲは心に深く刺さっていたのだ。
 
 
そして転機は中学2年の夏に訪れる。
くだんのノブリンの家に泊まった時のこと。「義足とっていい?」そう聞いた彼に「やっと見せてくれるんや」という言葉が返ってくる。
「待っててくれたんやなと。その時僕はなぜ義足になったのか、生まれつきなのか事故なのか、そんなことも彼にいえてなかった」
心が大きく動いた瞬間だった。
 
「成績もほぼ一緒!」だったノブリンとは、同じ信太高校に進学。「自転車に乗れない僕のために、毎日坂をこいで迎えに来てくれた。つまりは二人乗り、でもこれは内緒です(笑)」
 
 
「目立つの大好き!」と軽音楽部に入り、文化祭でも活躍。別人のように明るくなった彼に、小さな事件が起こる。
「ガソリンスタンドでバイトしてたんです。でも店長は僕を辞めさそうとしていたみたいで」
理由は不自然な歩き方が、集客にマイナスイメージだというもの。
「こっちから辞めたるわ、って思ったんですけど一緒に働いてる友だちがちょっと待てっていうんですよ。ちゃんと仕事してるのにそんな理由でクビにするのはおかしい。俺がなんとかするって」
 
同僚のアルバイト一人ひとりを説得し、「望を辞めさせるなら、全員辞める」と店長に直訴してくれたのだ。アツい友人のおかげで難を乗り切ったのだが、その時感じたことがあるという。
 
「まだまだ差別はあるんだということ。普通の人にとっては障がいが、どういうものかわからない。だからもっと前に出て伝えていかなアカンと気づいたんです」
声を上げなければ社会は変わらない…その思いが今の講演にも生かされている。
 
 

恩師との偶然の再会

結局大学を卒業するまでそのバイトは続いたのだが、ある日「望やないか」と声をかけてきたオジサンがいた。偶然にもそのガソリンスタンドの前をジョギングしていた、小学校時代の恩師。
「今クラスに手に障がいがある子がおるんやけど、お前の話をしてあげてくれへんかな?」
そんな偶然の再会こそが、講演活動の始まりだった。
 
 
一方でバレーボールを再開したのは大学4年の時。中学ではバスケットボール部に入ってしまったため、それきりになっていたのだ。
それも大学の教授に「お前バレーボールやってたんやろ?なんで今やってへんねん」と不思議がられたのがきっかけ。
「ほんまや、なんで僕やってへんのやろ?」
すぐさまチームに参加してみると「これがすごい面白かったんですよ」
 
復帰するや眠っていた才能が開花。数年後にはなんとセッターとして日本代表になるまでに。「僕は足を切断してる分、スピード感のある動きができる。マイナスをプラスに変えることができるんです」
ムードメーカーとしてチームを引っ張り、何度も世界大会に出場。惜しくも今年はリオ行きの切符を逃したが、4年後の東京五輪では「必ずメダルをとりたい」と週に3~4回はスポーツセンターに通う。
 
市役所の業務をこなしながら、バレーボール日本代表としての合宿に試合、そして小中学校での講演…フル回転で駆け抜ける毎日。
「何人もの親友に出会えたから今がある。ガソリンスタンドでバイトが続けられたから、恩師にも再会できたし、講演活動をすることもできた。その講演でまた、たくさんの子どもたちと出会える。今までのことは全部ムダじゃなかった。つながってるんやなあと」
 
 
「みんなの宝ものはなに?」
彼の講演はその言葉から始まる。
 
「僕の宝ものは、この足やねん」そういって義足をとってみせる。
初めて向き合う障がいに子どもたちは一瞬ヒルむが、話が終わると「僕友だちがいないねん」とか「残ってる傷が恥ずかしいねん」とかそれぞれの思いを打ちあけに来るのだという。
 
そんな時必ず伝えることがある。
「イヤなことや恥ずかしいことは隠してもいいよ。でもいつかきっと、クリアになる日がくる。それは明日かもしれないし、10年後かもしれない。でもいつか隠さなくていいんや、ありのままの自分でいいんやと思える日がくる。大丈夫やで!」
 

2016/5/21 取材・文/花井奈穂子 写真/ 小田原大輔