私的・すてき人

僕らが建てた学校を使ってくれる子どもたちがいる。それだけでうれしい

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「AAF(Asian Architecture Friendship)」幹事

のだ たかし

野田 隆史さん [大阪府堺市在住]

公式サイト: http://asianarchitecturefriendship.web.fc2.com/

プロフィール

1962年 堺市出身
1986年 京都大学大学院建築学科卒業 (株)竹中工務店入社
2000年 竹中工務店設計部の有志を中心とした民間ボランティア団体「AAF」を立ち上げ、ヒマラヤのフィリムに小・中・高校建設をスタートさせる
2007年 日本建築学会賞受賞
2009年 国際石材建築賞受賞

標高1600メートル、ヒマラヤ山脈に囲まれた、貧しい小さな村に学校が誕生した。
文字も読めぬまま生涯そこで働き続けるしかなかった子どもたちが、その日を境にペンを持ち本を読み、学ぶ喜びに目を輝かせる。
そして本当に子どもたちが手にしたものは、限りなく広がる“未来”だ。
生きるということは無限の可能性と夢に満ちていることを、人は“教育”を受けて初めて知らされる。

学校を建て、その“未来”という光を、10年以上もの年月をかけて射し入れたのが、彼をはじめとする「AAF」のメンバーたち。「ここを卒業して大学に行った子が、今度は教師として戻ってきてくれたんです。その循環がほんとに嬉しい…」
勢いにまかせたボランティアではない、静かに、だが諦めることなくやり続ける――それこそが本当に誰かを支援することなのだと、あらためて思い知らされる。

僕らの力で学校を建てたい

15年前チベットや中国福建省にある、アジアの民家や史跡ともいえる土楼を視察に行った時のことだ。「奥地に行くと、学校がないんですね。どんなに学びたくても、学べない子どもがアジアにはいっぱいいる。だったら僕は設計士ですから、設計という技術で手伝えることはないか、支援できることはないか…と思いはじめたんです」

だが、設計で協力したいと申し出ても「支援団体からは、資金援助だけでいいっていわれるんですね。でも僕らはせっかく持ってる設計という技術で支援したい。思いを実現するにはどうしたらいいんやろ…と考え続けた」

だがその2年後、自らが務める竹中工務店にネパールからの留学生が訪れたことで、一気に照準が定まる。「彼女が帰国した後も向こうから様々な情報をもらい、現地に行って調査もしました。で、ネパールのフィリムという村なら、宿舎を設ければ周囲9つの県から子どもたちが通える。よし、ここに学校を建設しよう!ということになったんです」

当時フィリムでは乾季の間、草原で小さな青空教室が開かれているだけだった。中学、高校といった先へ進む施設が無いために、親は子どもを労働力としてしか見ないケースがほとんど。それでも地べたにはいつくばって先生の言葉をメモする子どもたちを見て「ここに、なんとか学校を建てたい」という彼の思いはどんどん募っていく。
「もう設計といわず、資金から村人との交渉、物資の調達まで、何もかもぜ~んぶ僕らでやってしまおう!と。腹をくくって頑張ろやないかってことになって(笑)」

その日から、会社の設計部有志数人でボランティア団体「AAF」を立ち上げ、仕事の合い間にネパールに飛んでは建設予定地の実測、村人からのヒアリング、労働力の確保…と、言葉も文化も何もかもが違うなかでの奮闘が始まったのだ。

支援とは長い年月をかけて見守っていくこと

だが、車が通れる道まで歩いて三日がかり、水道も電気も電話もない…というまさに“陸の孤島”に、小・中・高校一貫施設さらに、寄宿舎まで建てようというのだから、並大抵のことではない。

寄付と外務省からの補助金でなんとか資金は確保したものの、不安定な治安、予定通りに進まぬ工事、建設に従事する村人たちの賃上げ交渉…と次から次へと難題が持ち上がる。頭を抱えながらもそのたびに道を探し、メンバーたちが自費で通い続けること3年。ようやく一期工事が終了し「ブッダ・スクール」と名付けられた学校がついにが誕生した。

「そりゃあもう村をあげて喜んでくれて、ほんとに嬉しかった。でも僕の中ではこれからやな、という思いの方が強かったんです。いくら教室ができても宿舎がなければ、他県の子どもたちは通えない。次は宿舎と食堂だなあと」

そして6年後二期工事も無事終了。現在もなお、派遣されてくる教員のための宿舎を計画中だ。「電気がないのでとにかく暗い。だから、なんとか教室に自然の光を取り込む工夫をした」という、現地の石を細かく積み上げて造られた建物は、まるで美術館のようにオシャレ。一昨年には、優れた石材建築に贈られるイタリアの「国際石材建築賞」も受賞したほどだ。

青空教室の頃30人だった生徒は、今では300人を超す。ここからSLCと呼ばれる高校卒業資格認定試験に合格し、助成制度を利用して大学に通う子どもたちも少しずつ増えてきた。さらに昨年には開校以来初めて、卒業生が今度は教師として戻って来るという嬉しい出来事も。

「教育の必要性を肌で知っている、彼女のような教師が増えることが何より大事なこと。苦労の連続でしたけど、子どもたちに学ぶ場所を提供できたことがほんとに嬉しいんです。この村が経済的に自立するためには、まだまだ整備が必要です。次は医療施設やゴミの回収システムも要るかなあ……」

資金援助だけなら比較的簡単にできる。だが資金を集めて施設を建ててみたものの、あとはほったらかし、結局村人に使われていないという例は少なくないという。住民にとって何が必要か何が大切かを考えながら、長い年月をかけて見守っていく…野田さんらは“支援”とは何かを静かに体現しているといってもいい。

日本人が造ったたったひとつの学校が、すべてを変えた。教育への意識も、子どもたちの未来と可能性も、そして村の経済も。いつかここからネパールという国を背負って、海外で活躍する青年たちが現れる日もそう遠くはないかもしれない。

2011/04/02 取材・文/花井奈穂子 写真/ 小田原大輔